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クーパー (駆逐艦) : ミニ英和和英辞書
クーパー (駆逐艦)[かん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
駆逐 : [くちく]
  1. (n,vs) extermination 2. expulsion 3. destruction 
駆逐艦 : [くちくかん]
 【名詞】 1. destroyer 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

クーパー (駆逐艦) : ウィキペディア日本語版
クーパー (駆逐艦)[かん]

クーパー (USS Cooper, DD-695) は、アメリカ海軍駆逐艦アレン・M・サムナー級駆逐艦の1隻。艦名は1938年に水上機の事故で死亡した飛行士のに因む。
==艦歴==
クーパーは1943年8月30日にニュージャージー州カーニーフェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドック社で起工した。1944年2月9日にエルマー・グレン・クーパー夫人によって命名、進水し、3月27日に艦長J・W・シュミット中佐の指揮下就役した。
クーパーは7月23日にボストンを出航し、9月4日に真珠湾に到着した。訓練の後10月23日にウルシー環礁に向けて出航して、11月5日に到着。直ちにルソン島オルモック湾およびマニラ湾の攻撃に向かう第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の護衛として出航し、11月19日まで同任務に従事した。ウルシー環礁での修理後、クーパーは11月29日にレイテ島サンペドロ湾に入港し、12月2日までレイテ湾の哨戒に当たる。
この頃、日本軍は多号作戦を幾度も重ね、レイテ島南西部のオルモックに増援部隊を送り込んでいた。アメリカ軍はこれを妨害するため、レイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣し、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた〔ニミッツ、ポッター, 401ページ〕。第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた。そして、三度目の作戦としてクーパーと、その姉妹艦のアレン・M・サムナー (''USS Allen M. Sumner, DD-692'') およびモール (''USS Moale, DD-693'') がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。
12月2日午後、哨戒機が多号作戦第七次船団を発見したのを受け、クーパー、アレン・M・サムナーおよびモールの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)〔木俣, 565ページ〕は18時30分にレイテ湾を出撃し、オルモック湾に急行した。しかし、第120駆逐群はとにかく運がよくなかった。出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した〔木俣, 565、566ページ、ニミッツ、ポッター, 401ページ、渡辺, 319ページ〕。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた。オルモック湾が近づいてくると、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった〔木俣, 566ページ〕。
オルモック湾に入った第120駆逐群は、湾内で2隻の敵駆逐艦および多数の小型艇と遭遇した。第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した。一方、湾内にあった駆逐艦も第120駆逐群を発見し〔宇那木, pp17〕、発光信号をもって後方のにも伝えた。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき〔木俣, 567ページ〕、桑を一方的に叩きのめして撃沈した。第120駆逐群は次の目標を竹と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した。竹は12.7cm 高角砲25mm 機銃、そして3本の酸素魚雷で反撃を行った。最初の雷撃態勢は、宇那木勁艦長(海軍兵学校(海兵)64期)が砲撃による閃光で目がくらんで発射の機会を逸したが、二度目の機会を得て魚雷を発射した。竹の水雷長志賀博大尉(兵68期)が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した〔雨倉, 99ページ〕〔以下の出典では、クーパーは恐らく桑によって沈められたとする:
〕。
報告書ではクーパーの右舷で爆発が生じたとする。クーパーは2つに分断し、1分以内に沈没した。敵艦の存在が生存者の救助を14時ごろまで妨げ、「ブラックキャット」と呼ばれたPBY カタリナが乗員のうち168名を救助したが、士官10名、兵181名の合計191名が失われた〔木俣, 568ページ〕。救助されるまでの間、クーパーの乗員は桑の乗員と一緒に漂流し、英語で会話した。クーパーを失った第120駆逐群は浮き足立ち、ザーム大佐は南への退却を命令した。アレン・M・サムナーとモールの2隻は竹に命中弾を与えたものの不発に終わり、逆にモールは竹からの高角砲弾が複数発命中。さらに、帰りにも月光や瑞雲などによる執拗な攻撃を受けて、復路でも損傷を受けた。殊勲の竹は任務を完了して12月4日午後にマニラに帰投し、宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった〔宇那木, pp23〕。宇那木艦長は、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した。
テレビドキュメンタリー「''USS Cooper: Return to Ormoc Bay''」がによって2006年中頃に製作された。内容は深海ダイバーのロブ・ラルミエールによる調査と、クーパーの生存者へのインタビューであった。
クーパーは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クーパー (駆逐艦)」の詳細全文を読む




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